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交流を通じて、アジアのひとびとに寄り添い、そしてつながる①

ソーシャル・アクションを自らの使命にして


□「私は自由だ」と手を広げて叫んだ車いすに乗ったDさん


 帰国後も、日本と中国の間に身を置きたいと考え、 「障害者の福祉と教育・日中交流委員会」という任意団体(委員長:山口薫・元東京学芸大学教授、副委員長:金子健・明治学院大学教授)を立ち上げて (私は事務局長)、10年ほどの活動を行ない、 その後、現在のアジアンロードでの活動へと続いていくわけだが、 これまで思いおこせば、いろいろな方との出会いがあり、数々のエピソードがある。


いくつか、アトランダムであげてみたい。
 アジアンロードの前身の任意団体「障害者の福祉と教育~~」で、こちらから専門家と関係者・当事者を派遣し、 あちらから同様の方々を招くという取り組みを隔年で取り組んだ。1回目は大連市副市長を団長に数人を招き、 こちらでは鈴木都知事(当時)に表敬訪問をし、 関係施設の見学、シンポジウムなどを開催して、その交流を始めた。
重度の子どものいる病院に教師が訪れて教育を保障する姿を、彼らが見て、 驚きとともに、感動の涙を流していたが、こちらから現地の施設を訪れて、やはり落涙する姿もあった。
大連市障害者連合会のD副理事長は車いすの方だが、北区の宿泊施設を利用した時、 バリアフリーになっている環境に感動し、「私は自由だ!」と両手を広げて叫んでいる姿は今も記憶に残っている。

交流を続けているうちに現地の施設や人びとが、こちらでの視察が功を奏しているのか、急速に変化・充実していくことに驚いた。


その後、現地では、ヨーロッパやアメリカへと交流が広がったようで、私たちの役割は終わったのかなという感触があり、今は組織的な交流は行っていない(個人的にはつながりはある)。

 日本へ留学にやってきて、彼・彼女たちの世話を私たちが行って、初期の目的を果たして帰国、または日本で就職した人も多い。 そんなことで、今でも中国に出向くと、会って食事をごちそうしてくれたり、何かと世話をしてくれたりする人が、北に南に、あちこちといる。 だが、残念ながら、目的を果たせず、帰国あるいは連絡が取れなくなった人もいる。
いずれもこちらが結構、お世話したにも関わらず、である。


 まとめて3人の日本留学希望者がいて、その方たちの面倒を見たことがある。 背の高い男の子E君、背の低い女の子Fさん、そして少々福よかな女の子Gさん。 いまでもはっきりと覚えているが、いずれも年齢は20歳過ぎで、同じ専門学校の卒業生たちだった。 日本語学校と連絡を取り、書類を入手し、本人たちに送って、手続きをとる。 <入学希望手続き→合格通知→ビザ申請>と一連のやりとりが済んで、晴れて日本への留学が決まった(※7)。 ちょうど現地に行く機会もあり、その際に、その福よかな子Gさんの親御さんから会食のもてなしを受けて、 「この子の親代わりになって、どうか面倒を見てほしい」という言葉も受けた。帰国後、しばらくして、 私は、彼ら3人を日本語学校の職員の方と一緒に空港に迎えて、予定している寮へ案内する。まず、ここで一つトラブルがあった。

 3人のうち、Fさんは元々その寮には住まず、オバさんが空港まで迎えに来ているということであったが、 そのオバさんが来ておらず、電話も通じない。 結局、他の方が予定している寮に案内した。3か月分の寮費や保証金合わせて20万円ちょっとだったのだが、 予定していた人たちは支払いを済ませるが、その予定していなかったGさんには、 払うと手持ちは、2、3万円しか残らなかった(※8)。 「さぁ、どうする」となった。しっかり者で少し日本語のできるGさんは、 「大丈夫、すぐにバイトをするから」という返事だった。


そして、その後、いろいろあって、約3か月後、どうなったか。


E君は、バイトと泊まるところを紹介してほしいということで、新聞販売店を紹介して、そこの住み込み店員となった。 朝は3時過ぎからの仕事で少々きついようだが、食事もついて、まずまずの学生生活を送っていた。

しっかり者のFさんは、その後、オバさんと連絡がとれ、東京にある通称・モンゴル村(※9)に住み、 アルバイトを3つほどこなして、学生生活を送っていた。

Gさんは、将来は弁護士になりたいといっていたが、最初に入った寮から出ず、そこで暮らしていた。 バイトもあんまりしている様子は見受けられなかったが、身なりだけは良かったことに少々気になった。


 この3人については、その後、さらにいろいろあるが、1年ほどして、それぞれの道が待っていた。

E君は、専門学校に行くということで、そこに入学したまでは承知していたが、しばらくたったある日、電話があり「今度、結婚するから」という連絡が入った。 「いいね、ところでどういうこと? 相手はどんな人?」などなど話を聞いたが、その後、連絡が取れなくなった。

Fさんは最初から日本語がかなりできていて、日本語学校のクラスの中でも優秀であったのだが、 学校の1年修了が近いある日、保証人の私に学校から連絡が入り、「最近、出席率が悪いですけど、どうしていますか。 このままだとビザの更新が難しいので日本語学校で勉強することは不可能ですよ」 (※10)と、びっくりするような内容だった。いったい彼女に何がおこっているのだろう?  彼女と連絡をさっそく取って、池袋のとあるお店まで彼女を呼びつけ、会って話を聞くと、 「親が病気になって、仕送りをするようになった。学校にも最近、行っていない」ということだった。 気づくのが遅かった。このままオーバーステイをするか、帰国するかの選択しかなかった。 故郷にはまだ払わないといけない借金もあるのだろう。 それですぐに帰国にはならないことも承知だが、帰るように説得した。 気の強い彼女から大粒の涙が零れ落ちていた。その後、帰国した彼女と一度、中国で会ったが、その後、連絡を取っていない。

Gさんも、その後、しばらくして学校にも行かなくなって、住んでいるところも変えていた。 その変わった住所を追いかけて、計3か所に出かけたが(3か所目は、千葉県下であった)、そこも少し前までいたけど、今はいないということであった。 その後、行き先がわからなくなった。


 あの時に、学校に行っていないという表面上のことはわかっていても、 彼・彼女たちが訴えない以上、彼・彼女らの身に、実際のところ何が起こっていたのかはよくわからなかった。 また、この3人が今どこでどうしているかわからない。 風のうわさで、故郷に戻っているという話も聞こえてくるが定かではない。 彼・彼女たちがあまりにも若く、都会の誘惑に流されてのではないかと気になるが、 私たちの支援が十分だったのかどうかという課題も残る。 いずれにしろ、初期の目的を果たしえなかった悔しさが、 彼・彼女たちのその後の人生にマイナスに働くようになっていては、少々悲しいものがある。


 ある時、いきなり知らない方から電話をもらい、しゃべり始めた方がいる。
話を聞いていて、わかったのは、困ったら私に電話するようにと言われた方で、 そのように言い含めた方は、私の旧知の中国の方。 「それじゃ、会いましょう」ということで会って、その人の窮状(住むところの確保と保証人探し)を知って、 一緒にアパートを探すことになった。 不動産屋へ一緒に出向き、こちらの素性も承知してもらって、 私が保証人となって、住むところを確保し、一件落着した。 その方Hさんとは、その後、年に2、3度、会うようになった。 コンピューターのプログラムづくりを仕事としているが、仕事のせいか、一向に日本語がうまくならない。 私にはもっぱら中国語で話をしてくる。 そんなHさんが、「『永住ビザ』(※11)を取りたいので力を貸してほしい」と言ってきた。 すでに数年来のつき合いとなっているので「いいよ」ということで、会うことに。

 ただし、これまでの経験から、ビザのような国家権力と関わるようなものについては、 専門家・行政書士の方に協力をいただくようにしている。 その方Iさんに連絡をとり、また社会的な地位もあり年収もかなりあるJさんにも連絡をとりつけて、 その方の保証人となってもらって、その申請の準備を始めた。

いずれもアジアンロードの仲間たちで、手数料が欲しいとかということがまずある方ではなく、 先にあげた共同意識、仲間意識で名乗りをあげている方々である。

それらの力を得て、ビザ申請をとるようにしたのに、直前になって「自分で手続きを取る」と言ってきた。 「またどうして?」と聞いても、「自分で取るから」との一点ばり。 どんな書類が必要かを知りたかっただけなのだろうか、その理由はわからない。 保証人になってもらう予定だったJさんに「今度の話はないことにしましょう」という断りの連絡を入れた。


※7 今では日本への留学は、直接、大学や専門学校に入れるようになり(現地でも留学フェアなどを実施して募集の門戸を広げている)、 いきなり「留学ビザ」が取得できるが、2、3年前までは、現地の大学を卒業していても、まずは日本語学校に入学して、その後、大学や専門学校に入るというコースが普通だった。


※8 私費留学生の場合、日本での滞在費や学費はすべて自分持ちだ。 書類上は、来日後の生活費はすべて、本人の家族や関係者からの仕送りでまかなうとなっているが、 実態は、大きくかけ離れている。来日後しばらくしてバイトを始め、生活費を稼いでいる学生がほとんである。 Gさんの場合、学費や寮費を払って、手持ち2、3万円というのは限界を超えており、 すぐさま生活費を稼がないといけない状態である。これらの事情を知らぬ人は「彼ら・彼女らは、就労目的で日本に来ている」と非難する。


※9 アジアンロードで「東京に住むモンゴル人」と題する調査を行ったことがある (東京国際交流基金助成事業)。特定の地域にかなりの人口密度で、 中国出身のモンゴル族(自分たちをモンゴル人という)が住んでいることがわかり、 その彼ら・彼女たちがなぜそこにいるか、また何を考え、将来、何をしようとしているのかなどについて聞き取り調査を行った。


※10 外国人が日本で生活するには許可が必要で、その許可を出しているところが入国管理局(入管)であり、 在留期間やその内容によって、28の在留資格がある。ビザとは通称で、入管では「在留資格」といっている。 その多くは、半年、1年で、その更新も認めている。在留資格もないのに滞在することを、オーバーステイ:不法滞在と言われる。


※11 日本で長年住んでいると永住申請を行うことも可能である。 28の在留資格の一つ「永住者」、いわゆる「永住ビザ」だ。 この場合、滞在許可期間は無期限となるが、一定の要件(滞在10年以上で、生活の安定等)が必要である。


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