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宮秋道男

20年間の自分史と組織の歩みを織り交ぜながら


宮秋

単著

『大連の街角から』(IFCC出版 1990)

共著

『社会福祉士・スピードマスター』

『精神保健福祉士・スピードマスター』(TAC出版)

主な論文

「交流を通じて、アジアの人びとに寄り添い、そしてつながる」

sankaku『コミュニティソーシャルワーク』2012年第8号
 中央法規出版

「いま、中国は」(十月社 1989)

「農作業をベースに、この街で学び、暮らしていきたい」
(社会教育 2006)

「中国出身のモンゴル人とつきあって」(軍縮 2008)

主な発表等

「農の力を活用した地域福祉の展開」(環境福祉学会 2007)

「くるめ・一歩の会と障がい者福祉」(立教大学 2007)

「アジアンロードと多文化共生」(荒川ボランティアセンター 2008)

資格など

社会福祉士、精神保健福祉士、社会福祉学修士(日本社会事業大学大学院博士前期課程卒業)


マスコミ・取材など

2008.11 Whose real is it ? (株式会社テトル)

『アジアの人々との等身大の交流を』→アジア交流【記事を読む】

2007.08 川の手エリアポータルサイト (独立行政法人都市再生機構)

『地域・草の根から国際交流に橋を架ける仕事』→ボランティア【記事を読む】

2005.10  あなたの街のボランティア探訪! (Yahoo!ボランティア)

『民衆ベースでの日本とアジアの交流活動を』→交流活動【記事を読む】

2005.05  あなたの街のボランティア探訪! (Yahoo!ボランティア)

『日中の懸け橋となるような活動をしたい』→ボランティア【記事を読む】


~今日までの歩み~

1)中国留学へ

 発行部数10万余の月刊誌の編集を、13年間続けていたが、 自ら病気(「中国病」=チャイナ・ホリック)になったと公言し、 中国・大連へ語学留学したのは、今から20年前のことだった(1987年)。

語学習得に励むとともに、日本からはなかなか行けない地にも足を運び、 験を重ね、また、現地で知己を得たりするなど、中国の素顔に接して、その間で治るどころか、 ますます重症になってしまった(当時の中国では、日本人が街中を歩いているだけでも珍しくて、「見つかると」集まってきた!)


2)食と農にこだわって

 途中、ホントーの病気(網膜はく離)に陥り、日本に一時帰国したものの、  再び、中国に戻り、予定の約1年間、滞在して、帰国した。

休職が解かれて、編集の仕事に復帰したが、その後の1年間で離職し、 住んでいる地元で、自然食の共同購入の会「ぐりん・ぴーす」の結成に参加して、生活の糧を得るようになった。

(実は、編集生活の中で「中国」と「食・農」にこだわり始めていたのである)


3)自ら組織者となって日中交流の組織を

帰国後は「中国と接点のある場所に身を置きたい」と考え、都段階や地元での日中友好協会の活動にも関わるが、 日中交流活動を自ら組織するようになる。

しかも「今後、日本と中国の間での経済交流、文化交流は自然と進むだろうから、自分はそれ以外のところで」と考えて、 市民交流として、地元で何人かと一緒に「グループ・中国だい好き」を立ち上げ (現在、こちらの役員は降りているが、団体の活動は、今も活発で続いている)

さらに、任意団体で、日本と中国の間の「福祉と教育」の交流を進める活動を行い始めた。


4)福祉と教育の日中交流の展開へ

 後者の活動では、北京や大連の障がい者や高齢者の施設、養護学校などの関係者と、 日本の関係者(大学教員や関係団体の組織者など)との間での相互に交流する機会を何度かつくった (北京や大連の新聞、専門の雑誌で、宮秋が何度か大きく紹介されもした)

実際、交流を通じて、中国のその分野の発展は、経済以上に著しいものを感じた。


5)アジアンロードの結成

交流の広がりを確かなものにしたいと考え、また、せまく中国にとどまることなく、 アジア全域にも広げようと、アジアンロードを組織したのは、10年前のことで、 いわゆるNPO法(正式には、特定非営利活動促進法)が成立してすぐだった。

それまで関係したくれていた仲間や留学仲間が参加してくれて、法人を結成したが、 実際に活動する方、場面は、正直に、今とは比較にならないほど少なかった。

交流の拠点を海外と考えていたので、それは一時的であり、短期的であるので仕方なかった。


6)交流団体らしい活動スタイル

理事の方のお住まいを提供していただいて、荒川区内に、事務所を確保してから、少しずつ広がりをもち始め、 語学講座や料理教室を開催するようになって、さらに多くの方の参加を得るようになった。

語学講座の講師の方と受講生が、受講後、食事を一緒にする程度から、 一緒に旅行するクラスがあったり、料理教室では、料理を作るだけでなく、 講師の出身の国や地域のことにも話が及び、交流団体らしい活動、 交流のスタイルが発揮された講座、教室が生まれつつある。


7)志」を貫く

 留学を機に、私の中では日は重ねても、年を重ねることがストップしたようである

(ex.365日のその次は、1年と1日ではなく、366日にあたる!)

私自身は、途中、市議会議員を2期8年間(91年~99年)つとめ、福祉職場(高齢者や障がい者の施設)に身をおいたこともあり、 また、今年3月まで研究生活(日本社会事業大学大学院で社会福祉学を専攻)を送っていて、傍から見ると、不安定感はぬぐえないが、 自分的には、一貫して、「志」を貫き、問題意識を発展させながら、今日の日に立っている。

実際、それぞれの場面で得たものが多く、関係性を広げて、今の私に活かせているつもりだ。


8)コンセプト

「私」が「私」であるためのコンセプト:「農業」と「福祉」と「アジア」

「実」業としての「農業」の大切さ:普段の私たちの世界は、所詮「虚」業ではないか。 本当は、命を生む、育てる、それをいただくことを通じて、生きる力を得ているのが私たちなんだ!

偶然性:私を産んでくれた母や、そして父には申し訳ないが、「私」が「私」であるのは、 世界で、ただ一つの「偶然」なんだ。中国で産まれれば中国人であっただろうし、障がいを持って産まれれば障がい者だった!

だから、その偶然を大切にして、他者にも接したい。